おかしな「勧告」について その3
県立高校の共学化を求める「勧告」について
たかしな司法書士事務所の司法書士 諏訪部秀明です。
今回も「おかしな「勧告」について」というテーマで、「その3」(最終回)を書きます。
本勧告書の記載の中で、私が納得できない個所は数多くあるのですが、そのうち、
「高校生活の3年間を一方の性に限ることは、人格形成からも、また男女共同参画社会づくりの視点からも問題である。」
については、先に触れました。
そしてもう一つ、ご紹介したいのは、この勧告書では埼玉県以外の他県での「別学高から共学高への移行」が進んでいるとして、あたかも、三名の苦情処理委員の先生方の主張が世の中の趨勢として正しいことが認められているのだ、との記載です。具体的な記載は、次のとおりです。
「他県においても共学化について議論がなされ、進められてきた経緯があり、確かに生徒数の減少における再編とともに進められてきたという流れもあるものの、多くの県も謳っているように、男女共同参画のために共学化が必要であるとの認識は、既に社会共通の認識に成熟しているものと考えられる。」
【疑問点】
① 少子高齢化、過疎化が進む地方での学校再編の動きを、あたかも自分たちの主張に利用する「いいとこ取り」していないか。
② 本当に、「男女共同参画」のためには「共学化」が必要という認識が「社会共通の認識に成熟」しているのか。
③ もしそうであるならば、私立高校、国立高校における別学高の存在が何故に国民的議論の対象となっていないのか。数多くの優秀な卒業生をもつ女子高校の存在も「男女共同参画」に反するというのか。
以上、ここまで「埼玉県男女共同参画苦情処理委員」から出された共学化早期実現を求める「勧告書」について述べてきましたが、最後に、当該勧告書の内容からは離れますが、私の雑感を述べて終わらせていただきます。
【雑感:その1】
本件勧告は「無責任なマッチポンプ」を仕掛けたものではないか。
本勧告は、そもそもの発端となった苦情申出がどのような内容であり、それに対して苦情処理委員がどのように対応してきたかを明らかにしないままに、いわば「県教育委員会」にもっともらしい「勧告」の形で丸投げしたものに見えてならない。そして、自身らは、“それ以上は知りません、お任せしまーす。” という、いわば他人に収拾(「ポンプ」役)を期待した、無責任なものである。
県当局も県民もこれに振り回され、多くの労力、税金が使われることになっている。
そして、当の苦情処理委員の先生方は、勧告内容が実現しなくても、埼玉県の遅れている実態を糾すべくマッチで火をつけたという行為自体に満足感をもって、じきに苦情処理委員を任期満了・退任していくのであろう。自らの「逃げ口上」(例えば、一部県民の無理解、頑迷固陋)だけは最初から、しっかり持っているのである。
繰り返しになるが、今回の勧告で示された「別学批判=人格形成からも、また男女共同参画社会づくりの視点からも問題という考え方」は、埼玉県立の高等学校のみにかかわるものでなく、全国の私立、国立高校、さらには大学教育を含めて当てはまる問題である。このような問題に対して火をつけただけで、まじめな取り組みをしたとは到底思えないのである。
【雑感:その2】
おかしな内容も、もっともらしく繰り返し主張していれば、いつしか「正しい」ものとして扱われるようになる。だからこそ、それに疑問を持つ心ある者は、何度でも粘り強く声を上げ続けることが必要だと思います。
詳しくは触れませんが、本勧告に先立つこと約20年前の平成13年度に行われた同種勧告と同じことの繰り返しであること明らかです。
今回もお付き合いいただき、ありがとうございました。
中学、高校、短大と女子校で育った者です。
「柳は緑花は紅」。
私が通っていた学校の創始者の言葉です。これは、いわずもがな「男は男らしく、女は女らしくあれ」という単純なる意味ではありません。
日本国語大辞典によれば、「柳は緑色をなし、花は紅に咲くように、自然そのままであること。また、ものにはそれぞれの自然の理が備わっていること」だそうです。
人それぞれ、一人一人がもつ特性を大切にしながら、自分の理に適う生き方をしなさいということだと私は解釈し、座右の銘にしてきました。
この度の「埼玉県男女共同参画苦情処理委員」の方からの勧告書は、一方的に「共学(という環境)が良し」とされ、人が学び舎を自由に選ぶ選択の自由を考慮していないように思えます。
男子校にも、女子校にも、もちろん共学校にもその良いところ、足りないところはそれぞれにあるでしょう。
しかし、その中で育まれる得難い経験や思い出は、誰にも否定できる、されるものではありません。
ダイバーシティ、男女共同参画など、場面によっては推進されたほうがよいフィールドもあると思います。が、このことに限って言えば、「誰に為になるのか?その結果何を生み出せるのか?」という視点が欠落しているように思います。
何かに感応し、すぐに提言する側に立つことが簡単にできる時代に、本当に学生時代を過ごす若者のことを思って時間や知恵を使える大人でありたいと思っています。