「関寛斎という男 その③」

(この写真は、昭和62年に廃線となった旧国鉄の湧網線(北海道の網走駅から中湧別駅)の跡地に保存されている蒸気機関車と客車です。)

たかしな司法書士事務所の司法書士 諏訪部秀明です。

 

前回は、「関寛斎」の話から、平成16年に廃線となった旧JR池北線(廃線時は第三セクターとしての「ふるさと銀河線」)のことを書きました。

 

「関寛斎」にまつわる話はこれでおしまい、と思っていたのですが、昨日、たまたま近くの本屋さんで「時刻表 復刻版 1982年11月号」というのを見つけ、懐かしさのあまり購入しました。1982年というと約40年前、元号でいうと昭和57年になります。この年の11月、上越新幹線が開業し、またこれに先立って開業していた東北新幹線も飛躍的な増発がなされるなど、大幅なダイヤ改正が行われています。

 

一方で、こののち、旧国鉄が分割民営化され全国各地にJRが発足し、経営の合理化が図られました。その中で特に、JR北海道では多くの赤字路線の廃止が進められました。改めて今回購入した当時の時刻表を見てみると、この時期を最盛期として多くの鉄道が廃止されたことがわかります。JR池北線は池田~北見の間、140キロメートルの距離に、30の駅があったことがわかります。

ちなみに私は、学生時代を札幌で過ごしましたので、感慨深いところがあります。

 

ところで、先日、たまたまNHKのテレビ番組で「オホーツク海」の沿岸で暮らす人々の話がありました。流氷のこと、紋別のアザラシ、雄武(おむ)町で酪農に携わる若いご夫婦のことなど・・・。この中で、北見市にある「屯田兵」の人形を保存してその偉業を伝えるお寺(信善光寺)があることも知りました。

 

「関寛斎という男」の話に始まった、ブログのこのシリーズ、その最後に。

北方の脅威に対する守りとして、北海道オホーツク海沿岸の開発が急がれていたころ、そのために「網走刑務所」の囚人たちが道路の建設、鉄道の敷設に大変な苦労をしています。

今から思えば極めて非人道的な扱いがなされていたともいえましょう。

北見市にある「鎖塚」や、遠軽・北見間の「常紋トンネル」にまつわる悲話も忘れてはならないと思います。

 

今回もお付き合いいただきありがとうございました。

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