関寛斎という男 その①

(この写真は、北海道足寄郡陸別町を流れる「斗満川」です。)

たかしな司法書士事務所の司法書士 諏訪部秀明です。

 

突然ですが皆さん、「陸別町」という地名をご存じでしょうか?

北海道足寄郡陸別町といいます。

北海道の内陸部、冬は極寒の地で、マイナス30℃を記録することもあるそうです。

 

その地に明治30年代の中ごろ、開拓を志して70歳を過ぎた老人が、入植しました。

その名は「関寛斎」。

 

生れは現在の千葉県東金市、18歳で佐倉にあった「佐倉順天堂」に入門、医療を学び長崎にも留学。

その後、乞われて徳島藩主の侍医となり、戊辰戦争では官軍側の医師として従軍したものの、敵味方なく負傷者の治療にあたりました。

徳島に帰った寛斎は、徳島医学校を創設して医師の育成に力を注ぎましたが、後に禄籍を奉還して、現在の徳島市内、城東高等学校がある場所の一画で、一平民として地域の医療に尽くしました。

 

このようにして、いわば「功なり、名を遂げた老医師」が72歳の時に、家財をすべて整理して、北海道十勝国斗満の地(現在の陸別町)に入植し、開拓の鍬を振るったというのです。

ともに斗満の地を目指した妻あいは、札幌で亡くなります。

関寛斎は、10年後の大正元年、82歳で生涯を閉じるのですが、開拓した土地の分配を通じて、自作農の育成、理想的な農村建設を目指したといわれています。

 

岩波文庫の「みみずのたはこと」(徳冨健次郎)には、健次郎(=徳富蘆花)が斗満の地に関寛斎を訪ねた時の様子が書かれています。

 

私は、偶然立ち寄った「道の駅 陸別」で、陸別町郷土研究会が発行している「陸別物語・前編」を買い求めたことから、関寛斎を知ることとなりました。

 

関寛斎と、陸別の地に関する私の思いについては、後日、書かせていただきたいと思います。

 

今回もお付き合いいただきありがとうございました。

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