関寛斎という男 その②
(この写真は、今は廃線となった旧JR池北線・陸別駅の風景です。現在は、観光用施設として保存されています。)
たかしな司法書士事務所の司法書士 諏訪部秀明です。
前々回の「関寛斎という男 その①」では、明治30年代の中ごろ、当時は未開地であった北海道十勝国斗満の地(現在の陸別町)の開拓を志して「関寛斎」という70歳を過ぎた老人が入植した、ということをご紹介しました。
入植後しばらくしての明治43年ですが、徳冨健次郎(=徳富蘆花)が陸別の地に「関寛斎」を訪ねています。徳冨蘆花は、妻と一人娘を連れての旅だったようです。
そして滞在中(9月24日~30日)の出来事として開拓に携わる方々や、アイヌの人々との交流、寛斎の歓迎ぶりや蘆花の一人娘鶴をかわいがる様子などを、「みみずのたはこと」(岩波文庫)に掲載しています。
また、「みみずのたはこと」には、関寛斎の生い立ちから開拓に至る経緯、そして大正元年10月15日に自らその命を絶ったことが書かれています。
「我が恋は斗満の川の水の音夜ひるともにやむひまぞなき」
辞世の句のひとつです。
ところで、話は変わるのですが・・・。
このときの蘆花一家の陸別訪問は、明治43年(1910年)9月24日のことであり、当時「網走線」と言われた北海道十勝の池田駅から、北に向かって網走の地を目指して敷設された鉄道のうち、池田/陸別間の開通後、わずか三日目のことでした。この「網走線」は、大正元年に、池田駅から現在の北見を経由して、網走までが開通しました。
当時は北海道開拓が進んでいた時期ですから、鉄道工事も盛んでしたが、この時期、札幌からオホーツク海に面する網走に鉄道で行くには、
札幌→帯広→池田→(陸別)→北見→網走 というルートであり、
現在のルート(札幌→旭川→石北峠→北見→網走)の開通は昭和になってからでした。
日本の鉄道の歴史、特に明治時代のそれは大変興味深いものがあります。時代背景としては欧米列強から国を守り、富国強兵・殖産興業に邁進していた時代です。
なぜ当時の日本が、オホーツク海に面した網走の地への鉄道敷設を急いだのか、また、明治15年のことですが、同じく海(日本海)に面する福井県敦賀の街への鉄道敷設(関西方面から琵琶湖の開運を使って、大阪→京都→長浜→敦賀のルート)を急いだのか・・?
それは北の脅威(北方ロシアの脅威)でした。日露戦争は1904年(明治37年)に勃発しますが、当時の日本は、日露戦争後もロシアの脅威に備えた準備をしていたことがうかがわれます。
その後、池田→陸別→北見の間のJR池北線は赤字を理由にJRの手から離れ、第三セクターとしての「ふるさと銀河線」に引き継がれたものの、平成16年(2004年)に廃止されました。
私は、偶然立ち寄った陸別の街から「関寛斎」という男を知るとともに、JR池北線の歴史を、そしてはるか明治の時代を振り返るところとなりました。
今回もお付き合いいただきありがとうございました。